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源義経

2007-11-28
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』源 義経(みなもと の よしつね、源 義經)は、平安時代末期の河内源氏の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟である。本姓は源氏。家系は清和源氏の一支流 河内源氏の棟梁 源頼信の流れで代々東国における武家の棟梁を輩出した家柄。仮名(けみょう)(輩行名)は九郎、実名(諱)は義經(義経)である。

河内源氏の棟梁である源義朝の九男として生まれ、幼名牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱で平清盛と戦った父の敗北により鞍馬寺へと預けられるが、後に奥州平泉へと下り奥州藤原氏の当主藤原秀衡の庇護を受ける。兄頼朝が平家打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平家を滅ぼし、その最大の功労者となった。その後、兄の許可を得ることなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、それに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。

その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉、多くの伝説、物語を産んだ。

清和源氏の流れを汲む河内源氏の棟梁である源義朝の九男として生まれ、牛若丸(うしわかまる)と名付けられる。母常盤御前は九条院の雑仕であった。父が平治元年(1159年)の平治の乱で平清盛に敗死した時、まだ幼少の牛若は、母に連れられて2人の同母兄今若、乙若とともに大和(奈良県)の山中を逃亡した。しかし常盤は実母が捕まったことを知り清盛の元に出頭し、清盛の妾となることを条件に、牛若と2人の兄と母の助命の許しを得た。

後に常盤は公家で院近臣の一条長成に嫁ぎ、牛若丸は7歳の時鞍馬寺(京都市左京区)に預けられ、稚児名を遮那王と名乗った。そして、11歳(15歳説も)の時、自分の出生を知った。鞍馬山の牛若丸伝説(鞍馬山で、天狗の面を被った落人から剣術の手解きを受ける。実際は平治の乱で敗れた時、治外法権の地でもあった寺院へ僧や僧兵として落ち延びた源義朝の郎党たちであろう)は、この時の逸話がもとになって形成されたものである。

遮那王は成人するに至って父を滅ぼした平家に対する復讐の念を抱き、16歳の時に鞍馬寺を脱走する。自らの手で元服を行い、奥州藤原氏宗主、鎮守府将軍藤原秀衡を頼って奥州平泉に下った。秀衡の舅で政治顧問であった藤原基成は一条長成の従兄弟の子で、その伝をたどった可能性が高いと考えられている。『義経記』では父義朝の最期の地でもある尾張国にて元服したとする。(『平治物語』では滋賀県竜王町で元服したとある)儀式は熱田神宮にて行い、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代経基王の「経」の字を以って実名(じつみょう)を義経とした。藤原秀衡の庇護を得たことについて、伝承によれば遮那王16歳の時に、金売吉次という金商人の手配によったというが、この人物の実在性は今日疑われている。


[編集] 治承寿永の乱

黄瀬川八幡神社にある頼朝と義経が感激の対面をし平家追討を誓ったとされる対面石治承4年(1180年)8月17日に兄頼朝が伊豆で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。秀衡から差し向けられた佐藤継信、佐藤忠信兄弟等およそ80騎が同行した。義経は富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)で対面した。頼朝は、義経ともう一人の弟の範頼に遠征軍の指揮を委ねるようになり、本拠地の鎌倉に腰を据え東国の経営に専念することになる。

平家(伊勢平氏)を破り、京を支配していた源義仲と頼朝が対立。寿永2年(1183年)に範頼と義経は大軍を率いて近江国へ進出した。翌寿永3年(1184年)正月、範頼と義経は宇治川の戦いで義仲を破り、頼朝の代官として入京した。

この間に平家は西国で勢力を回復し、福原(兵庫県神戸市)まで迫っていた。義経は、範頼とともに平家追討を命ぜられ、2月4日、義経は搦手軍を率いて播磨国へ迂回し、三草山の戦いで平資盛らを撃破。範頼は大手軍を率いて出征した。2月7日、鎌倉軍は一ノ谷の戦いで平家軍に大勝する。『平家物語』などではこの戦いで義経は鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて一ノ谷の平家の陣営を奇襲して源氏が大勝したことになっている。信頼性の高い『吾妻鏡』でも義経が精兵70騎で鵯越から一の谷を攻撃したとあり、義経はこの合戦で大きな働きをしている。

一ノ谷の戦いの後の元暦元年(1184年)8月6日、後白河法皇によって左衛門少尉と検非違使少尉(判官)に任官し、従五位下に叙せられ院への昇殿を許された。これに激怒した頼朝は義経を平家追討から外してしまう。8月に範頼が大軍を率いて山陽道を進軍して九州へ渡り、平家を包囲する遠征に向かう。9月、義経は河越重頼の娘(郷御前)を正室に迎えた。

範頼の遠征軍は兵糧と兵船の調達に苦しみ進軍が停滞してしまった。やむなく、頼朝は義経の起用を決める。元暦2年(1185年)2月、新たな軍を編成した義経は、暴風雨の中を少数の船で出撃。通常3日かかる距離を数時間で到着し、四国讃岐の瀬戸内海沿いにある平家の拠点屋島を奇襲する。山や民家を焼き払い、大軍に見せかける作戦で平家を敗走させた(屋島の戦い)。

範頼も九州へ渡ることに成功し、最後の拠点である長門国彦島に拠る平家の背後の遮断した。義経は水軍を編成して彦島に向かい、3月24日(西暦4月)の壇ノ浦の戦いで勝利して平家を滅ぼした。義経は法皇から戦勝を讃える勅使を受け、一ノ谷、屋島以上の大功を成した立役者として、平家から取り戻した鏡璽を奉じ京都に凱旋する。

『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語では、治承・寿永の乱において義経の参加した合戦は、義経の戦法や機転が戦況を左右したように描かれている。

戦後は頼朝の代官として京にある時は河内源氏重代の館であった堀川御所に住まった。


[編集] 頼朝との対立
平家を滅ぼした後、義経は、兄頼朝と対立し、自立を志向したが果たせず朝敵として追われることになる。

元暦2年(1185年)4月15日に頼朝は、内挙を得ず朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、京での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また4月、平家追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、「義経は頻りに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状が頼朝に届いた。一方、義経は、先の頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して、5月7日京を立ち、鎌倉に凱旋しようとした。しかし義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れた。このとき、鎌倉郊外の山内荘腰越(現鎌倉市)満福寺に義経は留め置かれた。5月24日兄頼朝に対し自分が叛意のないことを示し頼朝の側近大江広元に託した書状が有名な腰越状であり、その中で義経は次のように記している。

「私は兄上の代官として、朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し、父の仇を討って名誉を回復しました。当然賞賛されるべき所を、思わぬ讒言にあい、莫大な勲功を黙殺され、功績があっても罪はないのに、御勘気を被り、空しく涙にくれております。生まれてすぐ父が亡くなり、母の懐に抱かれ大和に赴いて以来、片時も心の休まることはありませんでした。諸国を流浪し所々に身を隠し、身分の低い者に仕える事もありました。しかし機は熟し、平家一族の追討のため、上洛し木曽義仲を誅し、平氏を傾けるため、或る時は岩に馬を走らせ命を落とすことを顧みず、或る時は大海に風波を凌ぎ身が海底に沈むのも厭わなかった。甲冑を枕とし戦ったのは、亡父の憤りを休め、宿願を遂げるがために他なりません。五位検非違使に補任されたことは当家の名誉であり、希なる出世です。他に何があるでしょうか。これを兄上に取り次いで下されば、貴殿(大江広元)は必ず一門と子孫を栄えるでしょう。」

頼朝が義経と対立した原因は、許可なく官位を受けたことのほか、軍監として義経の平氏追討に従っていた梶原景時と義経の間に合戦のやり方を巡って対立があり、景時が頼朝に義経の行動は軍規を乱すと主張したこと、そして平家追討の功労者である義経の人望が源氏の棟梁である頼朝を脅かすことを怖れたことが指摘されている。特に前者の許可無く官位を受けたことは重大で、まだ官位を与えることが出来る地位に無い頼朝の存在を根本から揺るがすものだった。また腰越状に源義経と自署したことも、源姓の私称とみなされ、かえって頼朝の怒りを募らせたという指摘がある。この頃頼朝は政権内の論功行賞のため、源姓を自身や一部の親族重臣にのみ公的に名乗ることを許す命令を出していた(御門葉)。しかし、これに義経はもちろん範頼も入っていなかったのである。

義経は許可なく官位を受けたことを咎められ、東国への帰還禁止と領地没収を命じられ、京に戻った。6月9日に頼朝が、義経に対し宗盛父子と平重衡を伴わせ帰洛を命じると、義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と述べた。これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。義経は近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を重衡自身が焼き討ちにした東大寺へ送った。一方京に戻った義経に、頼朝は9月に入り京の六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく梶原景時の嫡男景季を遣わし、かつて義仲に従った叔父源行家追討を要請した。義経は憔悴した体であらわれ、自身の病と行家が同じ源氏であることを理由に断った。


[編集] 謀叛

義経の一行が逃げ込んだ吉野山10月、義経の病が仮病であり、すでに行家と同心していると判断した頼朝は義経討伐を決め、家人土佐坊昌俊を京へ送った。10月17日、土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲った(堀川夜討)が、応戦する義経に行家が加わり、合戦は襲撃側の敗北に終わった。捕らえた昌俊から兄の命であることを確認すると、これを梟首し同じく頼朝と対立していた叔父の源行家と共に京で頼朝打倒の旗を挙げた。彼らは後白河法皇に再び奏上して頼朝追討の院宣を得たが、頼朝が父、義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥った。

29日に頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。11月1日に頼朝が駿河国黄瀬川に達すると、11月3日義経らは西国九州の緒方氏を頼って京を落ちた。義経一行の船団は摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなってともに摂津に押し戻されてしまった。これにより義経の九州落ちは不可能となった。一方11月11日、義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。さらに頼朝は、義経らの追捕のためとして、諸国への守護と地頭の設置を求め、入洛させた北条時政の交渉の末、設置を認めさせた。

難破した義経は郎党や愛妾の白拍子の静御前を連れて吉野に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。逃れた義経は反鎌倉の貴族、寺院勢力に匿われ京都周辺に潜伏するが、翌年の文治2年(1186年)5月に和泉国で叔父・行家が鎌倉方に討ち取られ、各地に潜伏していた郎党達も次々と発見され殺害される。院や貴族が義経を逃がしている事を疑う頼朝が、同年11月に「京都側が義経に味方するならば大軍を送る」と恫喝している。

京都に居られなくなった義経は、藤原秀衡を頼って奥州へ赴く。『吾妻鏡』文治3年(1187年)2月10日の記録によると、義経は追捕の網をかいくぐり、伊勢・美濃国を経て奥州へ向かい、正妻と子らを伴って平泉に身を寄せた。一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたという。

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Posted by zzxdre at 15:09:09
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